クルド自治区に馴染みづらい -ことばの罠-

 

 

イラククルド自治区での留学生活もおよそ5ヶ月目を迎えた。

知らない文化や土地での生活には早くなれるほうかもしれないと自分のことを過信していたが、案外そうではないのかもしれない。

わたしはいまだにクルドに苦しんでいる。

クルドはなかなかつかみどころが難しい。

仲良くなったと思ったらつれなくなったりして。

特に私の住んでいるアルビルのような都市部でそう感じる。

 

究極に異なる文化なのであれば、それを面白がるという方法を取れる気がする。たとえば「この人たち、ほんとう図々しいな。ならこっちも図々しくいくぞ!」とか、「なんて寡黙な人たちなんだろう。よし、仲良くなってみせよう」などとできる気がするのだが、ここは一見、日本的な作法で通じてしまうところがある。私の暮らすアルビルはクルド自治区の首都でジャーナリスト、NGO、ビジネスで来ている外国人も多い。アルビルの比較的若いクルド人は、外国人と働く機会も多いために、外国人に合わせて対応してくれるのかもしれない。(というのはつまり、アルビルの特徴なのではなくて、日本社会で要領よく振る舞えなかった私の問題なのであるが…)

 

そしてどこかクルドなるものから一線を引かれていると感じることもある。もちろん基本的にはこちらの人はみな優しい。とても親切なのだが、他民族に迫害されてきた民だからか簡単には人を信じないぞという思いが根底にはあるのか、、、とも勝手な想像をしてしまう。貴重なクルド人の友人いわく、「2003年以前まで私たちの場所は閉ざされていたから、まだ慣れていないんだと思うよ」とのこと。あるいはどの一族かが重要だったり、家族に大物がいたりするから、必要以上に仲良くなろうとしなかったり、自分のプロフィールを明かしたくないのかもしれない、という。

 

と、まあ5ヶ月いたくらいで偉そうなことを言うのはやめたほうがいいだろう。馴染めない日々の中でのクルド・アルビルでの小さな「格闘」をご紹介することから始めたい。

 

私が頭を悩ませていることの1つに、

「『スパース』」と言うべきか、『シュクラン』と言うべきか」問題がある。

 

ふたつの言葉はクルド語とアラビア語でそれぞれ「ありがとう」を意味する。店の会計に立った際、私はどちらの言葉をいうべきか毎回、一瞬混乱しフリーズする。

 

アルビルには異なる言葉を話したり、異なる宗教を持つ人たちが暮らしている。そして時にやや仲が悪かったりする。

 

アルビルにイラククルド人が一番多いのはもちろんだが、

 

クルド語のソラニ方言を話すアルビルやスレイマニアなどのクルド人

クルド語のバーディニー方言を話すドホークなどのクルド人(ソラニ方言とは85%くらいは共通しているという、友人談)

クルマンディー方言を話すシリア・クルド人(シリアでの戦争を逃れて来た人たち、ソラニ方言とは65%くらいは共通しているという、友人談)

アラビア語の方が堪能なシリア・クルド人(同じ理由。シリアでは長らくクルド語教育を禁止していた)

イラク国内のアラブ圏出身のアラブ人

シリアから来たアラブ人

アラビア語の方が堪能なイラククルド人(アラブ圏に長らくすんでいたため)

アッシリア語を話すアッシリア人(彼らはキリスト教徒。その中でも宗派が4つくらいあって、宗派すべてが仲良しであるわけではない)

ヤジディ教を信仰する人(クルド人と自認する人も、そうじゃないという人もいる)

カカイ教を信仰するカカイ人

トルコ系のトルコマン人

シャバック人

バハーイ教徒

アジア、アフリカからの出稼ぎ外国人

ほかにもいろいろ

 

などなど。しかも顔を見ただけでは、アジア・アフリカからの出稼ぎ外国人以外は初心者の私には誰がどういう背景の人だかまだわからない。基本的にみんなヒゲの濃い男の人か、目の大きい女の人に見える。

しかもアラブ人かクルド人かわかったとしても、アラビア語の方が堪能なクルド人もいる。例えば、アルビルの普通のファーストフード店の従業員がシリアから避難して来たアラビア語話者のクルド系シリア人だったりする。アラブ人とクルド人の結婚もあるから、分けること事態が難しいともいえる。

 

「スパース」か「シュクラン」か。「ありがとう」を何の言語でいうか問題。

言葉は通じれば何だっていいと言われるかもしれない。本当にそう思う。だが彼らは基本的には仲があまりよくないのだ。クルド人はアラブ人に対して怒りを持ち、アラブ人はクルド人を蔑んでいる部分がある。特にクルド人に対してアラビア語を使ってしまったらどうしようか、と気の小さい私はヒヤリとしながら話す。

 

クルド人にはサダム政権時代などアラブから抑圧されたという歴史がある。年配者のクルド人アラビア語を使うように強制されていたことで、今もアラビア語が話せるが、アラビア語というかアラブ人に対してよくない感情を持っている場合も多い。

今は少しは状況はよくなってアラビア語を使ったからと言って誰も怒りはしないし、むしろクルド人から「アラビア語は話せるか?」と聞いてくれたりする。少し前まではクルド自治区アラビア語を使うと露骨にいやな顔をされたと聞いた。避難民などアラブ人が増えたり、アラビア語を話せる外国人が増えたりした結果だと思うが、根本の「アラブ人きらい」という感情はまだ持っている人がけっこういるのだ。

 

民族感情うんぬんにいろいろ考えることはあるが、とにかくシンプルな挨拶は相手の普段使う言葉で返したい。

 

だから会計のレジの前に立った時、私は一人頭の中でこう会話する。

『ここはクルド人の普通の地区だし、よし、“スパース”と言おうか。いや、待てよ。従業員は違うかもしれないぞ。“シュクラン”というべき可能性も否定できない。わかんないなら本人に聞けばいいか。でも言語を聞くことは、生まれを聞くことでもあるから、詮索しているみたいでイヤかな。『シリアです』『カラコシュです』とか答えさせて、逃げきた時のことを思い出させたり、『難民/避難民』だって見られるのに辟易していたりしないかな。いや、それがもしかしたら会話のいとぐちになるのか。えーっとどうしよう。。。あー、もうめんどくさい、どっちもやーめた。今回は英語の“サンキュー”でいいや!』

 

こういった数秒の自問自答を毎回、進歩なく繰り返す。最近はとりあえず全部言う方法も取得して、「スパース、シュクラン、サンキュー!」と言うようにしているが、ごまかしている感が拭えないし、言いづらい。英語に頼ってしまい彼らの言葉をしゃべれないというのも、クルドとなかなか距離を縮められない理由の1つかもしれない、と言い訳してみる。

 

なかなかやっかいな言語問題だが、でも私はこの言葉当てがやめられない。アルビル・アンカワ地区の八百屋で野菜を買った時のことだった。ここに住む人たちはアッシリア人と呼ばれ、クルド語でもアラビア語でもない「アッシリア語」を使う。詳しく話すと長くなるので、またの機会にするが、キリスト教を信仰する人たちだ。

ところでアルビルの住人でたまに愛想笑いをしない人がある一定度いる。こちらがにこやかに接してもにこりともしない。その店番の兄ちゃんもそんな1人だった。私の前向きコミュニケーション力もだんだん縮小方向に向いて来ていたが、まだ来て数ヶ月、諦めてはいけない。このお兄ちゃんはアッシリア人に違いない。思い切って小声で言ってみた。アッシリア語でありがとう、「バッシーマ」と。私は見逃さなかった。さっきまで無表情だった兄ちゃんが、お金をしまいながら下を向いたまま一瞬「ニヤッ」と笑ったのだ。心の中で私はガッツポーズをした。「当たった!」

 

これだから言葉当てはやめられない。挨拶だけでも相手の言葉を使うことで、「私、あなたのことに興味があるの!」という意思表示が伝わればいいと思う。シャイな私は、ややシャイなクルド自治区の人たち相手にこの言葉当てゲームでできるだけ格闘しようと思う。