クルド、イラクの知人にはあまり読まれたくない話
グーグル翻訳というものはありがたいもので、だいたいの意味をつかめるくらいには各種外国語の記事を訳してくれる(英語訳だけど)。この翻訳機能に私もだいぶと助けられているのだが、私が読めるということは、それはつまり、私が日本語で何か書いても、こちらの知人たちにも読まれる可能性があることを意味する。
何がいいたいのかというと、わたしのしょうもないこのブログを読んでくれるクルド、イラクの友達たちもいて、前回、いかに男どもが面倒かを書いたら、「タクシードライバーに愛想よくしちゃだめ!」とアドバイスしてくれる友だちやら「中東以外でもあるよ!」とか、「なんてことを書いたんだ〜!」とショックを受ける男友だちもいて、そんな反応がけっこう面白かったりしている。でも今回のブログはあまりこちらの知人たちには読まれたくない話なのでちょっとドキドキしながら書き始めている。
クルドの民の愛国精神についてだ。
そしてそれが私にはどうも居心地が悪いというか、どう理解したらいいかわからないという話なのだ。
どれほど愛国精神が強調されているのかというと、まずわかりやすいのは旗だ。いろんなところあちこちでクルドの旗を見る。
上から赤、白、緑の三層になっていて真ん中に太陽が輝く旗だ。
例えばこんな感じ。
街中のデコレーションがクルドの旗の連続。
大学の授業のポワポ資料の冒頭に特にクルドの話ではないのになぜかクルド国旗が出てくる。
パソコンに旗とクルドの領土のステッカーが貼ってある。
フェイスブックのプロフィール写真にクルドの国旗が重ねられている。
シンボルは旗だけじゃない。
店先には独立闘争を指揮したムスタファ・バルザニと息子のマスウド・バルザニ、新大統領のネチルバン・バルザニの肖像写真が飾ってある。
「クルド衣装の日」はもちろんのこと、何か祝い事があるとその日は若者から年寄りまでクルドの衣装をこぞって着る。
調理用のガスボンベがトラックで巡回販売をされているのだが、トラックが近くにいることを知らせるお知らせソングは、クルドの昔のナショナル・ソング。
私のいる研究科の修士論文のテーマもある一定数が「クルド自治区における×××について」。
とにかくどこに行っても「クルド」を感じるのだ。
それも当然だ。国を持たない最大の少数民族。迫害され、虐殺されてきた。トルコやシリア、イランに住むクルド人迫害されたり、イラクよりも悪い状況が続いている。イラクのクルド人は今も国はないままだけれど、ようやく得た自治権の中で思いっきり「クルド」を享受しようとしているのだ。
イラクに住むクルド人に起きた悲劇で一番はサダム・フセイン政権によるハラブジャでの毒ガス攻撃だ。5千人が亡くなったといわれる。現在もその時の被害者、犠牲者の支援をしたり、調査を行う独自の省、「殉教者とアンファールの省」なるものも存在している。
知人友人からもサダム政権時代に親戚家族が行方不明になった、殺されたという話をよく聞く。というかそういう親族がいない人を見つける方が難しいかもしれない。
「クルドを享受している」と書いたけれど、今、何も問題がないわけじゃない。2年前の2017年、イスラム国掃討作戦に戦闘に貢献し、また混乱の中で領土を拡大して勢いを増したクルド陣営はイラクからの独立賛否を問う住民投票を決行した。長年の悲願であり、「もうこれ以上、アラブの問題に巻き込まれたくない」との思いもあったろう。
しかしアラブ側は独立を許しはしない。怒ったバグダッドの政府が一部、クルド地域に軍を派遣し避難民が出た。クルドにある空港も半年間、閉鎖され、経済も滞った。自治区があるとはいえ、国を持たない民の弱さが全面にでた。自分たちが「虐げられたクルド人」であることを意識せざるを得ないのだ。
しかしここからが、クルド人にはとてもいいにくいパートなのだが、あまりにもクルド人がクルドなるものにとらわれすぎているのではないかと少し心配になることもある。
うまく言えないのでどういう時に違和感を感じるかを書いてみる。例えばこんな時。3月5日の蜂起デー。1991年の湾岸戦争で多国籍軍がクウェートをイラクから解放した直後、自分たちも自由を勝ち取ろうとイラク北部でクルド人による民衆蜂起が起きたのだ。イラク政府は鎮圧し、多くのクルド人の難民を出したが、最終的にはアメリカ、イギリス、フランスが「飛行禁止区域」を作って、イラク政府がクルド人の地域を攻撃できないようにたことにより、クルドの自治区としての歴史が始まった。
私の通う大学でこの日のための式典が開かれ、寸劇が演じられた。3分ほどの劇だったが、流れはこんな感じ。
- クルド人が暮らしている。
- そこへイラク軍がやってきた。
- 一人が銃で撃ち殺された。
- もう一人がやられそうになった時、クルド人兵士ペシュメルガがやってきてもう一人は助かった。
- 劇の全員がクルドの旗を持って整列し、クルドの音楽がかかる。観客も総立ちして拍手喝采する。
劇としてのクオリティーも微妙なのだが(クライマックスが唐突)、なんだがこの劇を見てモヤモヤとした感情が湧き上がって来た。この劇のいわんとすることは何なのか。いや、気持ちはわかる。かつて起きた悲劇を忘れずにいようということなのだ。でもこの劇の究極のメッセージは何なのか。「悲しい過去を忘れずに」だけだろうか。いや、「イラク・アラブは酷い」、「クルド人万歳」ではないだろうか。私の違和感は自然と立ち上がる学生たちと、大きく振られた旗を見た瞬間に最高潮に達した。
ある知人からこんな話を聞いた時に、すこし腑に落ちついた。(知人はクルド人でもアラブ人でないイラク人。ここ重要)クルドの小学校の教科書にはサダム時代に埋められた地雷の話が載っているという。その知人いわく地雷は危険なので子ども達に注意を喚起するためにはそのことを教科書に載せるのはすごく重要と思うという。だが、教科書で言わんとされているのは「埋めたサダムは悪いやつ」ということなのだそうだ。
いや、もっともなのだ。クルド人はずっと大変だった。地雷を埋めたサダムは酷いやつ。歴史は鮮明に残しておくほうがいいと思う。今も腹が立つようなことだって起きている。でも過去の憎しみを増産する必要はないようにも思う。国を持てば解決するのか。クルド問題は、「クルド」なるものを考えることにクルド人を惹きつけすぎて、アラブを嫌うことに体力を消耗されて、逆に彼らの能力や可能性を奪ってはいないかと心配になる。
クルド人を責めているようだが、アラブ人にもいろいろ思うことはある。
アラブ人の友人たちがこういうのを聞いてドン引きしたことがある。ふだんは外国人の私にもとてもフレンドリーに接してくれるいい友人たちだから尚更だった。
「アラブとクルドは兄と弟の関係だ。弟であるクルドは兄であるアラブに従わなければならない」
「ハラブジャの毒ガス攻撃をサダム・フセインがやったかどうかはわからない。イランがやったはずだ」
こんな声も聞いた。
「イラク戦争後の私たちが大変な時期に自分たちばっかり経済成長してずるい」
イラク・アラブを苦しめた湾岸戦争も、イラク戦争も、クルド人にとっては自治を強める「好機」だったのは確かだが、それまで弾圧されていたのだから「ずるい」とまで言われる筋合いはなかろう。
イスラム国から逃れて来たアラブ地域の避難民を数多くクルド自治区は積極的に受け入れたのだが、そのことに対して
「クルドが受け入れたのはそりゃ国際社会の支援が入るからだよ。メリットがなけりゃやらないっしょ」
というアラブ人もいた。そういう側面があったとしても、アラブ側がクルドに助けられたのも、自分たちのものを分け与えて支援したクルド人がたくさんいるのも大きな事実なのだ。
そんな言い方をされれば、アラブを嫌いになるよね、とクルドの言い分もわかる気がする。私も自分のことは棚にあげるが、「アラブ人よ、もう少しクルドの歴史を勉強してみたほうがいいんじゃない」と言いたくなる。アラブ人はクルド人のことを「クローズド・マインド」と表現することがある。アラブ人がそう言う時に、「1つの国イラクとして協力してみんなでやってこうって言ってるのに、なんだよ、ノリ悪いなぁ」みたいなそんな軽さも感じる。イラクは1つだとかいいながら、アラブ同士でスンニとシーアでまだ問題を抱えているし、イスラム国問題だってもともとはアラブ側から発生した問題。クルドにしてみれば飛んだはた迷惑なのだ。
しかもイラクにはヤジディ、クリスチャン、トルクマンなどなど、いろんな民族、宗教の人々がいて、とばっちりを受けている。アラブかクルドかという話でもない。
おそらく一生、アラブ人とクルド人が仲良しこよしになんてならないんだろう。たぶんそれを目標にしないほうがいい。
でも、目指す場所が、「自民族を守る」ことなのか、「この悲劇を自民族にも、他の人たちにも、繰り返させない」ということかで違ってくる。適度にうまくやっていけたらいい。いや、でもそれが難しいだけれど。
ということで、クルド人とアラブ人にこのブログを読まれたらうまく言い返せる自信はないし、もしクルド人に読まれたら「お前は歴史とクルド人の苦悩をわかってない」と言われるだろうし、実際に半年も住んでいるのにあんまりわかっていなくて本当にすみませんという感じなのだが、でも書いちゃいましたという日記でした。
アルビルで人妻になる私
アルビルで私は突如として、人妻と母になる。
結婚して1年、夫と1歳になる子どもが1人いる。
別に現地妻ならぬ、現地夫がいるわけではない。そういう自己紹介をすることがある、という話だ。
私がこの街、アルビルに馴染みづらい理由のもう1つに、男性との距離の取り方が難しいということがある。
一番、如実に現れるのはタクシーに乗った時だ。
タクシーの運転手さんとの会話は覚えたてのクルド語のフレーズを試してみる絶好の機会。
「出身はどこ?」
『日本です』
「この車は日本製だ。日本はいい。日本人はみんな頭いい!」
こういうお世辞から会話は始まる。
『へへへ、でもわたし、頭よくないよくない』
とジェスチャーで返答すると、サービス精神のある運転手さんが、
「ジャッキー・チェン、ブルー・スリー、ジェット・リー、最高!」
と続けるので、
『いやいや、それは中国、香港です』
というと、
「日本じゃないのか!そうなのか!」とたいそう驚く。
それから、
「仕事は?」「お名前は?」「何歳ですか?」
お互いにこんなことを聞き合う。
これくらいの会話内容であれば問題ない。数分間の爽やかな交流だ。
しかし、ニコニコと話していると、あるタイプの運転手はもう1段ステップを踏み越えてくる。
「結婚しているのか?」
単なる普通の質問なのかと最初は思った。家族は何人、兄弟姉妹がいるのか尋ねるそういう類の質問かと思った。そういう場合も実際にある。「うちは4人の子どもがいてねぇ」なんて。しかしこの結婚しているのかと質問をしてくる人の約半分は、「結婚していない」というと、だいたい次の質問を続ける。
「クルド人と一緒になるのはどうか?」
そして、
「俺はどうだ?俺も独身なんだ。俺でもいいだろ?」
これは大抵、変な下心があるということが多いのだ。「俺はどうだ」とジェスチャーつきでしつこく聞いてくる。
クルド人だから結婚したい、したくないとかいう以前に、一回乗っただけのタクシーの運転手さんからの突然の軽いプロポーズを受ける理由はない。「失敬な!」と言い返してやりたいが、そんなクルド語、わからないので、思いっきり、不機嫌な顔をして、窓の外を眺めて、「ああ??」とゾンザイに反応を返すことにしている。そんなわけで、わざわざ不快な気分にならなくてすむよう、結婚して子供もいる、「とっても幸せです!」と返事しているのだ。
そう、男性と普通にフレンドリーに話そうとすると、勘違いされたり、妙になれなれしくされたりするので、自粛せざるを得ないのだ。
イスラム教徒は紳士で女性に優しいという人がいる。もちろんそういう人も大勢いる。そういう人に大勢助けられて来た。少なくとも外国人女性としては自由がきかない部分よりも、気を使ってもらえるという正の部分を享受できることも多かった。
でもそれと同時に、イスラム教徒でない女性は全員、ビッチか自由性愛の国から来た人たちだと思い込んでいるイスラム教徒も確実にいて、不快な思いもする。しかも外国に一人で来て、独身の女とあれば何でもオッケーな人に見えるのだ。特にかわいくもない私でも、愛想笑いすれば「こいつ、いける」と即座に勘違いされてしまうことがある。
さらにひどかったのはまだ何もこちらのルールをわかっていなかった一番最初にアルビルに来た時の頃。日本のタクシーではドライバーの隣の席は定員でいっぱいにならない限り座らないが、こちらのタクシーは一番、最初にドライバーの席から埋まる。運転手とお客さんが仲良く前の座席に座っておしゃべりしながら乗っている姿をよくみる。
「郷に入れば郷に従え」。ならば私もそうしようと助手席に座ってタクシーに乗っていた。当時の私は、アルビルで見る全てが新鮮でとにかく明るかった。窓の外の風景をニコニコしながら見て、ドライバーにも親しげに話しかけた。だがある異変に気付いた。ドライバーがなぜか笑ったついでに軽くボディータッチをしてきたり、ガムを食べろと口の近くまで持って来たり、ニヤニヤ笑ってタクシー料金はいらないと言ってくるのだ。そして窓の外の建物を、それから自分と私を指差して、そして左右の手のそれぞれの人差し指をくっつけてこちらを見て意味深に笑い言うのだ。
「どうだ、これから?」
これから一体何なのか。つまり、これは私を売春婦と思いホテルに誘っているのだ!
何度かこのような経験をしてようやく気付いた。運転手の助手席に座るのは男性だけで、女性の客は後ろに座るのが普通なのだ。このルールを無視して助手席に座る私を運転手たちは売り込み中の売春婦か何かと勘違いしたのだ。
念のため、アルビルの運転手の名誉のために言っておくと、一貫して紳士だった運転手もいるし、今思えば、自分の子どもの写真を見せて、「売り込み中の売春婦」の気持ちを外らせようとしていた運転手もいた。
しかし概して、道で友人との待ち合わせをして立っているだけで客待ちと勘違いされて「いくぞ!」と声をかけられたり(そして私はよく友人に待たされる)、ジュース屋の店員とおしゃべりするだけで「マッサージはするのか?(もちろん普通のマッサージの意味ではない)」と聞かれることもある。いろいろと面倒なのだ。
実際に売春宿などもあちこちにある。見分け方は簡単で、赤い中国提灯が下がっているかどうか。一番最初の写真がおそらくそれ。奥まった路地や、普通のホテルの窓の前にかかっている。大体はマッサージ店という表記だ。中国人らしき女性がバーでダンスを踊りまくり、そのあとに客に話しかけて営業している姿もみたことがある。私が勘違いされることが多いのもこの仕事にアジア系の女性が多いのが理由の1つだろう。
(ちなみにアラブ人女性の売春婦もけっこういるらしい。バグダッド出身の女性が多いらしいが、そういう女性たちが多く住むアパートや、商売に使う特別な家というのもあるらしい。)
不快な思いを避けるため、なんとなく私は「ツン」としていなければならなくなってしまう。そんな失礼ことをしない人もいるが、そういう人は外国人女性にそんなにペラペラ話しかけたりしない。それにその人が礼儀正しく接してくれる人なのかどうか、すぐにはわからないので、こちらも様子見が続いてしまう。アルビルはどうとも馴染みにくい。
クルド自治区に馴染みづらい -ことばの罠-
知らない文化や土地での生活には早くなれるほうかもしれないと自分のことを過信していたが、案外そうではないのかもしれない。
わたしはいまだにクルドに苦しんでいる。
クルドはなかなかつかみどころが難しい。
仲良くなったと思ったらつれなくなったりして。
特に私の住んでいるアルビルのような都市部でそう感じる。
究極に異なる文化なのであれば、それを面白がるという方法を取れる気がする。たとえば「この人たち、ほんとう図々しいな。ならこっちも図々しくいくぞ!」とか、「なんて寡黙な人たちなんだろう。よし、仲良くなってみせよう」などとできる気がするのだが、ここは一見、日本的な作法で通じてしまうところがある。私の暮らすアルビルはクルド自治区の首都でジャーナリスト、NGO、ビジネスで来ている外国人も多い。アルビルの比較的若いクルド人は、外国人と働く機会も多いために、外国人に合わせて対応してくれるのかもしれない。(というのはつまり、アルビルの特徴なのではなくて、日本社会で要領よく振る舞えなかった私の問題なのであるが…)
そしてどこかクルドなるものから一線を引かれていると感じることもある。もちろん基本的にはこちらの人はみな優しい。とても親切なのだが、他民族に迫害されてきた民だからか簡単には人を信じないぞという思いが根底にはあるのか、、、とも勝手な想像をしてしまう。貴重なクルド人の友人いわく、「2003年以前まで私たちの場所は閉ざされていたから、まだ慣れていないんだと思うよ」とのこと。あるいはどの一族かが重要だったり、家族に大物がいたりするから、必要以上に仲良くなろうとしなかったり、自分のプロフィールを明かしたくないのかもしれない、という。
と、まあ5ヶ月いたくらいで偉そうなことを言うのはやめたほうがいいだろう。馴染めない日々の中でのクルド・アルビルでの小さな「格闘」をご紹介することから始めたい。
私が頭を悩ませていることの1つに、
「『スパース』」と言うべきか、『シュクラン』と言うべきか」問題がある。
ふたつの言葉はクルド語とアラビア語でそれぞれ「ありがとう」を意味する。店の会計に立った際、私はどちらの言葉をいうべきか毎回、一瞬混乱しフリーズする。
アルビルには異なる言葉を話したり、異なる宗教を持つ人たちが暮らしている。そして時にやや仲が悪かったりする。
クルド語のソラニ方言を話すアルビルやスレイマニアなどのクルド人
クルド語のバーディニー方言を話すドホークなどのクルド人(ソラニ方言とは85%くらいは共通しているという、友人談)
クルマンディー方言を話すシリア・クルド人(シリアでの戦争を逃れて来た人たち、ソラニ方言とは65%くらいは共通しているという、友人談)
アラビア語の方が堪能なシリア・クルド人(同じ理由。シリアでは長らくクルド語教育を禁止していた)
イラク国内のアラブ圏出身のアラブ人
シリアから来たアラブ人
アラビア語の方が堪能なイラク・クルド人(アラブ圏に長らくすんでいたため)
アッシリア語を話すアッシリア人(彼らはキリスト教徒。その中でも宗派が4つくらいあって、宗派すべてが仲良しであるわけではない)
ヤジディ教を信仰する人(クルド人と自認する人も、そうじゃないという人もいる)
カカイ教を信仰するカカイ人
トルコ系のトルコマン人
シャバック人
バハーイ教徒
アジア、アフリカからの出稼ぎ外国人
ほかにもいろいろ
などなど。しかも顔を見ただけでは、アジア・アフリカからの出稼ぎ外国人以外は初心者の私には誰がどういう背景の人だかまだわからない。基本的にみんなヒゲの濃い男の人か、目の大きい女の人に見える。
しかもアラブ人かクルド人かわかったとしても、アラビア語の方が堪能なクルド人もいる。例えば、アルビルの普通のファーストフード店の従業員がシリアから避難して来たアラビア語話者のクルド系シリア人だったりする。アラブ人とクルド人の結婚もあるから、分けること事態が難しいともいえる。
「スパース」か「シュクラン」か。「ありがとう」を何の言語でいうか問題。
言葉は通じれば何だっていいと言われるかもしれない。本当にそう思う。だが彼らは基本的には仲があまりよくないのだ。クルド人はアラブ人に対して怒りを持ち、アラブ人はクルド人を蔑んでいる部分がある。特にクルド人に対してアラビア語を使ってしまったらどうしようか、と気の小さい私はヒヤリとしながら話す。
クルド人にはサダム政権時代などアラブから抑圧されたという歴史がある。年配者のクルド人はアラビア語を使うように強制されていたことで、今もアラビア語が話せるが、アラビア語というかアラブ人に対してよくない感情を持っている場合も多い。
今は少しは状況はよくなってアラビア語を使ったからと言って誰も怒りはしないし、むしろクルド人から「アラビア語は話せるか?」と聞いてくれたりする。少し前まではクルド自治区でアラビア語を使うと露骨にいやな顔をされたと聞いた。避難民などアラブ人が増えたり、アラビア語を話せる外国人が増えたりした結果だと思うが、根本の「アラブ人きらい」という感情はまだ持っている人がけっこういるのだ。
民族感情うんぬんにいろいろ考えることはあるが、とにかくシンプルな挨拶は相手の普段使う言葉で返したい。
だから会計のレジの前に立った時、私は一人頭の中でこう会話する。
『ここはクルド人の普通の地区だし、よし、“スパース”と言おうか。いや、待てよ。従業員は違うかもしれないぞ。“シュクラン”というべき可能性も否定できない。わかんないなら本人に聞けばいいか。でも言語を聞くことは、生まれを聞くことでもあるから、詮索しているみたいでイヤかな。『シリアです』『カラコシュです』とか答えさせて、逃げきた時のことを思い出させたり、『難民/避難民』だって見られるのに辟易していたりしないかな。いや、それがもしかしたら会話のいとぐちになるのか。えーっとどうしよう。。。あー、もうめんどくさい、どっちもやーめた。今回は英語の“サンキュー”でいいや!』
こういった数秒の自問自答を毎回、進歩なく繰り返す。最近はとりあえず全部言う方法も取得して、「スパース、シュクラン、サンキュー!」と言うようにしているが、ごまかしている感が拭えないし、言いづらい。英語に頼ってしまい彼らの言葉をしゃべれないというのも、クルドとなかなか距離を縮められない理由の1つかもしれない、と言い訳してみる。
なかなかやっかいな言語問題だが、でも私はこの言葉当てがやめられない。アルビル・アンカワ地区の八百屋で野菜を買った時のことだった。ここに住む人たちはアッシリア人と呼ばれ、クルド語でもアラビア語でもない「アッシリア語」を使う。詳しく話すと長くなるので、またの機会にするが、キリスト教を信仰する人たちだ。
ところでアルビルの住人でたまに愛想笑いをしない人がある一定度いる。こちらがにこやかに接してもにこりともしない。その店番の兄ちゃんもそんな1人だった。私の前向きコミュニケーション力もだんだん縮小方向に向いて来ていたが、まだ来て数ヶ月、諦めてはいけない。このお兄ちゃんはアッシリア人に違いない。思い切って小声で言ってみた。アッシリア語でありがとう、「バッシーマ」と。私は見逃さなかった。さっきまで無表情だった兄ちゃんが、お金をしまいながら下を向いたまま一瞬「ニヤッ」と笑ったのだ。心の中で私はガッツポーズをした。「当たった!」
これだから言葉当てはやめられない。挨拶だけでも相手の言葉を使うことで、「私、あなたのことに興味があるの!」という意思表示が伝わればいいと思う。シャイな私は、ややシャイなクルド自治区の人たち相手にこの言葉当てゲームでできるだけ格闘しようと思う。